アンチの心境

アンチに陥ると時間が非常に無駄になる。しかしわかっちゃいるけど、というか時間の無駄と全く考えずにずっとアンチし続ける人もいる。なぜなのか。

最初好きだったけどアンチに陥った人は粘り強いというか、無駄にしつこい。昔好きだったものに裏切られた気になるから、同時に愛憎状態になるからだ。変化したのが自分の感覚だったとしても、それに気づけない。例えば「タモリはイグアナの真似をしていた頃が一番面白かった」とかがそれである。いま、タモリがイグアナの真似をしていても面白いと思う人はいないだろう。それなのにイグアナをしないと怒る人はタモリが変化したことよりも、自分が面白いと思った頃の感覚がずっと続くと信じているのだ。タモリはずっといまの感覚でやり続けているはずで、最初の門を突破するためにわかりやすくイグアナを利用したに過ぎない。同じイグアナをやり続けていたとしても飽きるくせに、変化は許せないというのはさすがに自分勝手過ぎるだろう。

最初から食わず嫌いでアンチに陥る人もいるが、実際に食って無いのでそれほど熱量は無い。

最後に、ダメだろうと思ってたら、やっぱりダメで、しかし周りの評価が非常に高いものに対してのアンチというのを取り上げておこう。これは事あるごとに思い出しては怒り出すので、定期的なアンチ行為が行われることになる。

なるほど確かに時間の無駄以外の何物でも無いのだが、本人にとっては多分死活問題に近いレベルの問題だったりもする。くそくだらないが、本人にとってはそうなんだから仕方ない。うつ病とかと同じだ。誰かに言われて思い直すとか、気持ちが楽になるなんてことは無い。

そういうのはきっと評価軸が人の評価に依る人が陥るのだ。自分の中に評価軸が確実に存在している人はそんなことで思い悩まない。しかし、人の評価が気になる人は自分には相容れない高い評価がされている作品に関して、非常に攻撃的な態度に出たりすることがある。ただ、評価軸が自分の中に無いひとでも、一概に攻撃的かというとそうでも無い。大きくは二手に分かれる。自分を殺してでも人の良いというものに合わせる、無視する、やり過ごすか、自分が良いと思えないならば本音を吐き出せる場所で攻撃する、つまりアンチ行為に陥るかだ。

なぜそんなにも強い感情が起こるのか、それは人の評価軸で生きる人というのは自分が受け入れてもらえるかどうかをつねに人の評価に任せているからだ。無責任なのはもちろんではあるが、自分が嫌いなら嫌いで良いことを、大勢が好きであると知ると、自分が否定されたような気がするのだ。自分の評価が甘いというバカにされた気にもなるのだろう。そこで「なぜ自分がその作品が気に入らないかの百の理由」を打ち出し、それで人を納得させようとする。

少しでも冷静な人ならすぐわかると思うが、この人の評価軸を気にする厄介な奴を納得させるのと同じくらい、好きなものを嫌いにさせることは難しいということだ。しかし、人の評価軸で生きる人は、肯定側にも一定数存在しているから、そういう人を転ばせるためには役立つ。同志を募るのだ。

うまくいかないことや、気に入らないこと、肯定できないこと、その感覚が多数と同様に動いていないと安心できないのである。だから必死になってアンチ活動を行う。これは評価軸を自分の中に持つ人にとってはクッソくだらないことではあるが、持たない人にとっては衣食住と同等か、それ以上に大切なことなのである。病気みたいなものだ。自分が良いと思ったことが多数派である保証も必要性も全く無いのに、それがわからないのである。

だから、自分の好きなものが少数派で、多数派のものに対してアンチになりそうな時は、「これはただの趣味であって、自分が少数派だったからといって、それが万人に適用できるものではないし、そうであるべきでは無い」ということを頭の中でつぶやくのだ。

1/24/2016 08:22:00 AM