なぜ人間の脳だけがシミュレーションを可能にしたか

それがわかったらノーベル賞がもらえる。シミュレーションが可能な理由すらよくわからない。何かパラダイムが進化の途中で起こった事は間違いないようだが、それが何によってもたらされたかは誰にもわからない。なぜなら進化論でいう淘汰という考えでは及ばない逸脱が起こっているからだ。

淘汰や遺伝形質の仕組みなどはなるほど複雑に見えるがしかし、それは事が落ち着いたときに初めて起こることである。進化は最初に大量のゴミを出す。そのゴミの中から生き残るものが生まれる、一番大きな淘汰はその時に起こる。その後は生き残ったものだけで淘汰したり、より環境に適したものが生まれたりする。

人の知能は現代の計算機の計算能力を遥かに超えている。それは機械的に得意なことでも勝てるという意味ではなく、機械には不可能なロジックを凄まじいスピードで動かし続けているという意味だ。計算機械の動きとは四次元と三次元くらい違いがある。

百兆ものシナプスが同時に発火し、それがネットワークとなり、ハブを介して必要な部分だけより強く発火する。このネットワークの動きの中に心が生まれると言われている。単なる予測である。誰も観測が出来ない。何の保証もないのだ。今は悲しい、今は嬉しい、などと発火を確認することはできても、なぜそれだから感情になるのかは全くわからないのだ。電気信号によって感情が作られるというのを迷信深いアメリカ人には理解できない人が多くいるようだが、日本人なら別に何の違和感もなく理解可能だろう。それでもなぜそこに感情が生まれるのかはよくわからない。

よく、程度の低い人がいるが、あれは何の程度が低いのかと問われて、一言で言うなら何だろうか。それはシミュレーション能力である。チンパンジーでも二個くらい先のことがわかるとか言われるが、その何個先まで予測がつくか、ということである。知能のオリンピックと言われる将棋の対局はどれだけ先のことを見抜いて指すかというので勝敗がわかれるはずだが、これも限定的な世界でのシミュレーションである。

抽象度が高くなるとこのシミュレーションがうまく働かなくなるので、具体例に落とし込んで説明すると多くの人が納得できるようになる。つまり、抽象的なことをシミュレーションするように進化したわけではなく、もっと切実なものをシミュレーションしていたのだろう。猿人達は。夜襲ってくる肉食獣か、季節の移り変わりか、大勢での集団生活か……

我らはきっと、今生き残っている類人猿とは比べものにならない過酷な環境を生き延びた猿人の末裔なのだ。間違いなく、シミュレーションしなくても生きていける環境ではなかった。だからシミュレーションが有効に働いた個体が生き残った。シミュレーションできる脳の発生はただの偶然だったのかも知れない。しかし、その能力がなければ死んでしまう環境じゃなければ無駄に過ぎないから残らない。豊かなジャングルに囲まれていつでも大体食事にありつけ、外敵もほとんど来ない、そういう場所ではそこまで必死にシミュレーション能力を駆使する必要が無いのだ。あれば便利ということで鍛えられるようなものでは無いということは金持ちのボンボンを見ればわかるだろう。何の切迫感もないから判断が甘い。判断はシミュレーション能力で良し悪しが決定する。

ロクでもない世界を生き抜くためにシミュレーション能力は発達し、全滅しないように環境をコントロールすることを可能にした。シミュレーション能力がどうやって鍛えられるかはいくらでも例があるが、何よりこの生き残るための必死さを欠いていたらいくら潜在能力が高くても関係なく発達しないだろう。現実が安全になってきたとしても、人は不安を探す、それが唯一自分を生き残らせるための能力を鍛えるものだと知っているからだ。本能で不安を探す、不安は無意識の発するシミュレーションの行き着く先である、その不安を解消するために仏教の禅問答はあるし、不安を抱く構造を持っている。この無作為な不安のことを煩悩という。もうすでにそこの地獄から人は解放されている、いや、されていないとしてもされていると考えよう、というのが仏教の基本的な教えである。涅槃、寂静、ニルバーナ……これはシミュレーションする必要なく、環境によって淘汰されるに任せた動物への回帰を歌うことでもある。

もし、幸せが煩悩や不安と反対の方向にあるとすれば、それはすでに動物が皆享受しているものである。生存には最強に有効に働くシミュレーションこそが不安の正体だったとしたら、バカほど幸せであるし、動物に近づくのが人の幸せであるのかも知れない。幸せだなというのは言い換えれば「バカでも良いんだな」ということである。知能にコンプレックスがある身としては耐え難いだろう。

3/24/2016 12:09:00 PM