映画と小説はどっちが情報量があるか

情報の質が違う。単純にデジタルデバイスに記録しようと思ったら何億倍も映画の方が情報が多くなるが、そういうことではないだろう。算数の基本的な考え方に、単位の違うものは四則演算してはいけないというのがあるので、単位を統一することを考えると、どうしてもそうなるが、もう一つ、定量化が難しいが、心の問題に置き換えれば、どっちが情報量があるか計算できるかもしれない。もちろん自分個人の中だけでな。

感覚としては小説の方がはるかに映画を上回る情報が脳の中で展開するが、これは個人差がある。絵を見せてもらわないと、脳内で再現できないという人も多いからだ。この、脳で補完する力が読書力、読解力というものなのではあるが、この力を上回る視覚表現というのは中々ありえない。人は絵そのもので感動しているわけじゃなく、その向こうにある個人的な解釈によって感動したり、怒ったりするものだ。映像になると、明確になり過ぎて、それ以上を考える余地がなくなってしまうため、この豊かな想像の領域が消失する。そのため、情報量が限定的になる気がして、情報量が少なく感じるのだ。

挿絵があると想像力を阻害する。その邪魔にならないようにするためには、挿絵自体が抽象的でも、具象的でもダメ。想像力に不利にしか働かないため、挿絵を嫌う作家も多いだろう。

想像力は無限ではないが、感覚の中では無限に広がっている。その無限感を阻害してもらっても結構ですよという奇特な映画こそが、小説を超える映画、つまり最高の名作として世に憚るのだろう。

3/30/2016 10:15:00 PM