自由の阻害による安全性の確保

自由が一概に良いものであるとは言いづらいのが、入力の時だ。音声認識は自由に喋ることができる割に言えることが限られているので、こっちが思慮してやらないと使い物にならなかったりする。自由になんでも言えるのが自由ではないのだ。

それよりも制限内で快適に、安全にやれる方が問題が少なく、やりたいことがやれるということの方が多い。制限してくれるから、自由を感じられるというわけのわからない状態があるのだが、実際そうなのだからしょうがない。

生物として自由を感じるのは何に関してかというと「所有」においてだ。所有が制限されたり、取り上げられるような事態は自由を阻害されたと知能の高い集団生活者は感じるようにできている。フランス革命の時に掲げられた、自由、平等、友愛というのは、チンパンジーの社会においても同等に機能しているのだという。

共産主義に何一つ自由を感じないのは所有が許されないからだ。チンパンジーでさえ、ヒエラルキーが下の弱いオスが最初にバナナを見つけたら、ボスザルが物乞いのポーズでその所有権をねだるのだという。その与奪の権利は弱いオスが握る。これを群れの生物は自由と感じるようにできているし、平等は同じキュウリの餌を与えられ美味しそうに食べていたチンパンジーが片方だけバナナを与えられるとブチ切れるというもの。友愛はバナナを取り合って何度も勝ったほうが先取権を得られるという組織の掟として役割を分けることにある。

……ということで、自由というのは別になんでもできるから自由ではなく、所有が保証されているときに感じるものだ。制限の中で行動することで、その所有権が手に入るのだとしたら制限を設けられていたとしても、自由には有益ですらあると言える。

だから「それ以上いかない」設定を用意して制限があるから安心してやりたいことがやれる状態になり、自由を感じることができるのだ。

4/06/2016 09:30:00 PM