なんでもできる系RPGが面白く無いわけ

やることが不明でゴールがわからないからどうでも良くなる。途中でやれること、ミニゲーム的なものに集中して目的を忘れる。皆で同じ目標に向かってないから、同士、同士、とやれずにイマイチ楽しくない。現実に近いから、やりたい人はやりたいことをやる、それで共感してもらうにはネットの向こうにいる誰かさんを探さないといけなくなって、別にそのゲームしなくても味わえることをやることになって、もっと別に面白いことがあるから……みたいな状態になる。

どんな味でも選択できるパスタみたいなものだ。組み合わせ次第で数百万種類のパスタが作れる、とか言われても、どっかのレストランの極上ペペロンチーノに全滅させられる。その味を味わうため、というのをユーザーは求めるから、何百万の組み合わせは地獄の作業で「みんな」が好きなわけではない。

漫画はデフォルメしたり、省略してくれることで、実写よりもマイルドな表現、的確な表現、よりリアルな表現というのを実写以上にやることができる。どういうフィルタを通して、どう表現するかが売り物であって、リアルさとかは二の次だ。コンテンツのクオリティは画質のクオリティとは別の所にある。

「なんでもできる」RPGとはまさにこのフィルタを捨てて、とにかくリアルにシミュレーションしてやるから、あとは自分のフィルタで世界を覗きな、という投げっぱなし感が強い。工学や実験の世界ではそういうのが役立つのかもしれないが、エンタメに関してそれをやっても作者の感覚があってこそのエンタメという日本人の感覚からしたら、未完成と感じてしまう。これが一般的な日本人の感覚なのかは知らんが、洋ゲーがいくらリアルでも流行らない理由はそこだろう。

絵画も、日本は正確な絵よりも、絵師の感覚を重要視してきた。日本画は、観察して、スケッチはせずに、記憶して、その記憶を頼りに後で感覚で書き出すものだ。もちろんとんでもなくデッサン力のある絵師が多いが、スケッチはしないし、写実性よりは感覚で、抽象的な絵が好まれる。印象派が影響を受けたのはその感覚だ。写実的な宗教画ばかり描かれていた時代を変えるため、ある種アナーキズムだが、体制に向かって中指を立てるために革命を起こし、ようやく勝ち得た価値観が、すでに日本では当たり前のものだった。

最高の組み合わせを提案して、楽しませろと客は口を開けている。口を開けているので何も言わない。自分でやらせろという客は口を開けてはいないので、大声で叫んでくる。作り手も、もちろん自分で作りたいという欲求が強いので、その方が楽しいと思いがちだ。しかし、数にしたら百対一くらいに、自分で作りたい側というのは少ないのだ。ほとんどの客は製品が「あなたがやらないといけないのは、これと、これです。それさえやれば楽しめます」というのを待っている。

4/01/2016 12:38:00 PM