原始仏教のススメ

日本にやってきた仏教は、儒教道教の影響を受けまくって、ほぼ原型を止めていない。仏教は仏陀という二千六百年前のとてつもない天才が残した教えであり、どこぞの為政者だの生臭坊主が権力や金銭のためにでっち上げた洗脳手段とは全く別ものだ。

荒行をして死にかけた仏陀がスジャータのミルク粥で命を救われ、「荒行アカン」と言って始まったのが仏教で、全ては無でも有でもない空であるという教えを体感したいなら身分の違いなんて関係ない。空を感じたいなら瞑想しろというのが全てだ。

空とは一体何か、それは全体を見たり、近くに寄ったり、しても分からないもの、わかりやすく言うと台風や口と一緒だ。台風の真ん中を突いて、これが台風と言ってもそれは台風の目だし、雲が渦巻く全体を撫でてこれが台風と言っても、それは単なる雲の塊だ。口も真ん中をついてこれが口と言ってもただの湿っぽい空間であるし、周りを触りながらこれが口、という風にいってもそれは唇に過ぎない。それでも我々は台風も口もわかる、多くの現象からそれという輪郭をつかむのだ。これはゲシュタルトとも言われるが、細部によるだけではピンと来なくなるが全体を把握すれば何となくそれとわかる……この感覚は誰にでもあると思うが、瞑想はこの感覚を力技で全世界に広げていこうという試みである。苫米地はこれを抽象度を上げるという言葉で再三言い続けているが、それこそが空の感覚である。ゲシュタルト崩壊を意図的に起こして、意味が全てに無くなった状態のことだ。

しかし、空だけで全てが説明付けられるわけではない。全ては無でも有でもない幻想の世界みたいなことばっかり言ってたら、皆死んだらハッピー、死ね死ね団みたいになってしまうからだ。ポアだ、ポアダ……ゲシュタルト崩壊しやすい漢字の意味、つまり、漢字はその形を取ることによって確かな意味を作り、それで人々に情報を伝えるものである。しかし、漢字圏の人間しかその情報を受け取ることはできない。だから、漢字の情報がわかる状態を勉強により作り出し、仮にでもそれで共通了解を得て、これはそういうものですよという幻想の中で生きようとしなければ生きていけない。幻想に浸ることで人は生きているのだ。それを仮という。

しかし、仮だけに寄ると、この世には皆運命を持って生まれてきた、前からの生まれ変わりで宿命を背負っているとか、無いものもあるように考えろという、神の思し召しと言われたら何でも信じる、要はキリスト教徒じゃなければ人間じゃ無い理論、生まれながらに差別階級が存在している理論が成り立つようになっていく。人の嫌らしい部分を美談にする理屈が仮の世界だ。

空だけだと全てあって無いようなものだから決してしまっても良いという発想になり、仮だけだと人間対悪魔、または黄色い猿的な宗教戦争になりえるが、ここに空も仮もどっちも単なるものの見方であるという概念、中というものがある。実は中こそが、仏陀が仮に生き、空を悟ることで見つけなければならないとした仏教の真理だ。

漢字を何度も書いていると何だかよくわからない意味不明な記号に思えてくる、これが空観、しかし、漢字を何の疑問も持たずに「そういうもの」として便利に使うのが仮観、その二つを知り、どちらもあり得るという認識を持ってそれでも現実的な機能として利用するのが中観だ。

人はまず本能的な仮観から始まり、全てを抽象的に捉えることで悟って空観に至り、さらに現実を生きていくという意味を中観によって見出す。これが原始仏教の教えだ。全てはあって無いようなものであるが、それでも存在するその場を俯瞰視点で見ながら生きようという考えで、すがるものも、諦めも無い中で、自らの感覚を研ぎ澄ませて現在の現象に遊ぶ発想である。

禅の発想やテーマもこれなのだが、習合したもののニュアンスが強いためそれと分かりづらいのだが、悟りの部分は同じである。禅では問題が出されて、それに答えを言うと違うとぶん殴られるのは、言葉で答えが出せるようなものでは無いということの表れなのだが、まあどうでも良い。禅の「魚は江湖に相忘る」というのは、仏教でいうところの縁起と同じ状態である。本ブログでも何度も取り上げているのだが、目標(煩悩)を持つと苦しみが生まれるという考え方。此縁性縁起、つまり何かやるときは、夢中で自己目的的にならなければ辛いだけであると言うのと同じだ。

原始仏教、つまり釈迦の教えは、わかりやすい。アホな修行をやらなくても生物の本能、つまり煩悩から解き放たれ、有でも無でもない、空の揺らぎを感じることは可能であるというだけのことだ。お経を唱える仏教は金儲けしか考えてないので、糞食らえということだ。

5/03/2016 10:44:00 PM