コンテンツの作り方

ネタがないと何も作れないというのは嘘だ。ネタがない、もしくはなくなったところから作り始めるのがコンテンツである。

完全に自分だけが持っているネタなんて、一生のうち何個もないはずで、結局は人の見つけたネタの焼き直しに過ぎない。つまり、仕入れて出すという問屋のようなことをやることになる。だが、それもすぐに尽きる。だから、自分に起こりうることでネタを考えようとすると、日常しかありえない。つまり、日常でネタを醸造する「しか」コンテンツを作る方法というのは存在しない。

日常に起こることと、荒唐無稽なことをくっつけることで、いままでにないものを生み出すというのが重要になるのだ。

例えば小説を書こうと思うなら、書けば良いだけだ。しかし、書きたいというだけで書こうとしない人も多い。そういう人はネタがないとか、いきなり素晴らしいものが生み出せるかもしれないとか、今はその時ではないとか、自分の書いたものが無駄になるのは嫌だとか、最小限の努力で書き終えたいし、そのための方法が知りたいとかそういう不純さがあるから書けないだけだ。

何の意味もないが書くだけで良いというふうに自分を持っていけないなら書くことも、続けることも不可能だ。

何の意味もないことをやっていても、人というのは賢いので意味を見出すことが可能である。いつの間にか速くなるタイピングで悦に入れるかもしれないし、書き終えた達成感で満足とストレス発散というものが得られるかもしれない。それはやってみないとわからないが、意味を求めてやってもダメなのだ。

コンテンツは作者自身は意味を求めず、ただ作り上げることに専念して、出来上がったものに付加価値をつけるのは他の人というものであるべきだ。これだけ何億人という人がひしめく世界で自分が頂点に君臨できることなんてまずありえない。千人の頂点ですらないだろう。

だったら自分が求める意味というのはほとんど意味がないということだ。そんなのが、頂点に君臨する漫画家や小説家の作り出したネタと同等に自分もネタが作れると思い込むのは頭がおかしい。どうせ何にもならないんだから、下手なことをせずにさっさと書き出してしまえば良いだけだ。

その書き出しのために必要な労力を最小限に抑えるというのも、最初は考えずに、自分が絶対できることをベースにやってみると良い。

パクリにならないようにするためにどうするかというと、人の作ったものを見て、それと全然関連性のないものを組み合わせて、元のものがまったく連想できなくなるまで煮込むという方法がある。発想の元は別にどこからでも好きなものを持って来れば良いが、それと合わせる具材を自分しか知りえないことでやるだけでいい。自分の日常とかで良い。新しい作品は組み合わせで作ると誰かが言っているが、それを自覚的にやるべきだ。

自分の好きなネタから始めて、次にそれを別の要素と混ぜる。それは自分の好きなものか、嫌いなものの要素であれば良い。その具材を合わせて、もとの作品を何かわからないように煮込めば、後は自分好みの味付けを所々に散らして行くだけだ。

コンテンツのほとんどはそうやって作られているので、具材になるものはほとんど出尽くしていると言って良い、その煮込み時間と味付けで千差を作り出すのだ。

しかし、煮込み時間が短く、具材がバレるように作っている場合も、味付けでまさかの展開に持ち込める場合があるので、原形がわからないというところへのこだわりはそれほど必要ない。むしろ、原形がわかるから安心してこうなるだろうという展開を先読みさせて、安心させとく。ガードを下げさせる役目があるのだ。どっかで見たことがあるからつまらない、と思わせるのも武器として使える。

ネタはすぐ尽きるがどこからでも持ってこれる。それをどう扱えば嬉しいと思われるか自覚的になること。同じことを言っていたとしてもその人なりの視点でそれを描けばそれだけでコンテンツとなりうる。コピペは無意味だが、自分なりの感想や見た方向はコンテンツとなる。着眼点だけなのだ。具材を一つ入れるということはその着眼点を他と差別化可能にする。何でも良いのだ。たとえでも良いし、それそのものを別の発想として捉えることでも良い。自分がどこにポインターを置くかということにこだわって、自覚的、明示的にそれをやるということだ。それをやるだけでもうコンテンツとなり得るのだ。

5/18/2016 09:37:00 AM