アナログ情報の優位性

デジタルはちょっとした破損が致命傷だが、アナログは少々壊れたところでその部分以外の情報なら再現、再生できるものである。本は濡れても、文字が判読可能であれば良いが、ハードディスクは中のベアリングのオイルが揮発して動かなくなったら終わる。

アナログの情報は長持ちするのだが、破棄が大変だ。紙なら燃やせば良いが量が増えるとトラックの台数で計算した方が良くなる。そんな増え方するのは書籍などだが、本がそんなにあっても、一度目を通したら二度と目を通さなくなるのが通常だ。DVDボックスを買ったは良いが、自分が一生の間にあと何度それを見直すか、ということに関していうとほぼ見ない、みたいなそんな感じだ。

情報は使うために必要なのだ。後のためにとっておくなんてことはできない。必要になった時に都度引っ張り出せるというのが重要なのだ。だから所有してもしょうがないという考えもある。一つの情報を何度も撫で回す感覚だ。そうならない情報はロングテール理論の彼方に消してしまった方が良い。人生は有限だ。極上のものを味わいたいのであれば、絶程的な「ひとつ」を見つける必要がある。

ものを無くした自称ミニマリストの病人はものを捨てるという浅はかな「ひとつ」を見つけ出したから、ああいう拒食症みたいな自己満足感を得るようになったのだ。

しかし、情報がどうこうというのも、基本は自己満足以外の何物でもない。ゲームも同じだし、趣味と名のつくものは全てそうなのだ。趣味に生きてなければ、ロボットと変わらない、人を道具として使おうとする勢力に屈したるものになってしまう。

だから、必ず趣味をどの瞬間でも持っておいた方が良い。持たなくてはならないということはないが、持っておいた方が人生の目的そのものだ。考えてもしょうがないことを考える暇をつぶすために趣味というのは必要なのだ。貧しい国は考えてもしょうがないことを考える暇が無いから趣味が無くても良いが、少しでも余裕があるなら趣味が必要だ。なければどうしようも無いことを考えすぎて不安症になってしまう。

ブログを大量に書き出す理由も、この無用な考えを雑音でかき消すための手段と考えると納得がいくと思う。暇が欲しいわけでは無く、集中を自然にして、しかも誰にも咎められる危険性の無いことが欲しいだけなのだ。誰にも相手にされなくてもそれは問題無い。何故なら一番の目的である、無駄な考えをかき消すことには成功しているからだ。

そして、この書き出しをアナログでやるべきかどうかと問われると、いささか疑問がわく。自己満足に過ぎない、つまり自慰と同義の行為である。他人を意識するのはFacebookとかTwitterとかLINEでやってれば良いのだが、問題はそのログを長々タフで消えにくいアナログという媒体でやる意味があるかどうかということだ。手紙も残しておいてもあとでどうにもならないのはわかるが、だからと言ってすぐに捨てるというわけでも無い。年賀状など捨てづらい。だったらデジタルで……みたいな感覚になってしまう。

アナログは場所が一番の問題である。デジタルはいくらテキストデータが膨大に送り込まれてもふーん、という感じで済むし、管理すらしようという気にならないが、大量のプリントや広告は処理に困る。自分で持っているメモやノートも、ずっと残り続けるが、そのせいで場所を圧迫するというジレンマもある。

自分の死を考えると、安全装置を一年以上オンにしなければ他人には不要なフォルダが消えるシステムというのは多くの男性が望んでいるものであろうが、アナログは誰かに願い出て無い限り消えることはないし、処分されるまで数百年は残り続ける。環境の悪いところでの自然消滅がそんな感じだが、環境の良いところであればまだまだ長期間残るだろう。そこまでして残すものがあるのか、ということである。生きている間に不便がないように利用可能ならそれで良いのだ。死んだ後のことなんざ知らんという割り切りもある。

いつ死んでも良いようにスッキリ生きていくのが目的であれば不要なものは持たないというのはアリだと思う。それがイコールで何もものを持たないということに極端に走るのはただのバカであるが、必要最小限に抑えて、自分が求めるものだけに集中しやすい環境を整えるというのは重要だろう。

5/23/2016 09:12:00 AM