昔の友人たちが派手に活躍しているのを遠くで眺める

起業したり、有名なウェブやアプリ系の会社に勤めていたり、デザイナーとして活躍したり、テレビに出演したり、映像系の監督になっていたり……学生当時、普通に会話したり、遊んだりしていた友人たちの一部がものすごい活躍を見せている。

当時は似たような事を皆でやっていたのに、もう足元にも及ばなくなってしまった。今は黙ってあんぱん工場であんぱんにケシの実を乗せる仕事を頑張っているだけだ。

何が友人と自分とで違っていたのか、やはり覚悟とやる気だろう。どうしても譲れない、どうしても行きたい場所、そこが違ったのだ。安定ばかりを夢見て、勝負に出る事なく、ひたすらケシの実を乗せる日々、そりゃ差がつくのも当たり前だ。

どうしても行きたい場所が無ければ、絶対そこにはたどり着けない。いや、どうしても続けたい、これならやり続けたい、そう思えるものでも良い。そういうのが無ければ、ひたすらにケシの実を乗せる日々しかやってこない。

こうしてしょうもない文章を書いて、何かを見つけようとしているが、多分、この先にも何も無いだろう。これは完全にストレス発散だからだ。チャンスをつかみに行こうとする事も無ければ、何かを目指す事でも無い、ひたすら欲に任せて書き倒すだけの行為を繰り返しているに過ぎない。

しかし、何かを作るという事に関しては、元の友人たちと何も変わらない。これが誰にも求められてないというだけで、自分の中での達成感や高揚感は十分にある。金にもならないし、注目される事も無いし、社会的な信用や地位や、ステータスがつくわけでも無い。自己満足だ。どうしても認めてほしい、そういう承認欲求も、商魂も何も無い。ジョギングや、瞑想と同じ。

それでも、映画を観たり、音楽を聴いたりするよりもエキサイティングな感覚が自分の中に渦巻いている。とはいえ、他者を意識するものでも無いから、特に何も起きる事が無い。

他者を意識するというのは、本当に辛く、嫌な気持ちになる事だ。それを意識する事なく、無意識で感じている時期は、本当になぜかわからないがストレスが異様にかかるなあと、ぼんやり考えていた。

しかし、他人からの承認は、余程の天才でも無い限り、向こうからはやってこない。これ見よがしに自分から提示して、反応を仰ぐためのものである。毎回同じパターンでも何でも良いから、自分が他人にアクセスするために本気で取り組むというものじゃないと、誰も響かない。

そういう積み重ねを繰り返して、友人たちは漲って駆け上がっていったのだろう。センスは人にどう見せるか、そういうためのものである。そのプロデュースを自ら進んでやって、しかもそれが「うわ、嫌だな」という感覚なく、どうしてもそれをやりたい、という熱情とともにやるから意味があるのだ。

これに自分がかけて生きていく、そう思う事が無ければ、ひたすらにケシの実をあんぱんに乗せる毎日しかやってこないのだろう。

5/24/2016 11:42:00 PM