「できた」という絶頂

人が覚せい剤や、麻薬などをやる、やめられないのは、それが最初の一回だけ凄まじい絶頂感を味わわせてくれるからだ。その絶頂感を何度も得たいということで、何度も薬に手を出し、見事常習犯となり、脳が燃え尽きる。

しかし、残念なことに、絶頂感を味わえるのは最初の一回だけで、あとは慣れてしまい、最初の快感には程遠い、燃えかすのような快感しかやってこないのだという。

しかし、絶頂感を何度も味わえる方法があるとしたらどうだろう、しかも、それは自分でデザイン可能であるとしたら……それは実際に存在し、その方法を使うことで、自分を完璧なコントロール下におくことが可能となる。

しかし、麻薬や覚せい剤ほど即効性はないし、時間もかかるものなので、誰もやろうとしないし、やったとしても中毒になる程続けられるものではない。それは瞑想によるドーパミンの大量出力だ。それができれば脚が腐っても気づかない達磨先生並みの快感に浸ることが可能となる。しかも内部から湧き出てくる麻薬物質なので、「慣れ」ないように設計されている。もう無限の快楽である。

人の体というのは、外部からくる異物に対して対応し、慣れるようにできているが、内部発祥の物質は慣れないようにできているのだ。その快感に慣れてしまうと生きていけなくなるから、その快楽物質には慣れないが、それを出すためのトリガーとなる出来事に対しては慣れてしまうのだ。

しかし、瞑想によって大量のドーパミンを出力しようとすると長期間の修行が必要になるし、できるようになる人間も限られている。

だったら簡易的な瞑想方法が無いだろうかと思うと、このブログ執筆がそれだ。人によってはジョギングだったり、朝のラジオ体操だったり、なんでも良いのだが、ドーパミンを出力するための自分なりのトリガーを内部に持つ、つまり、自分の中から溢れ出すものを表現、創作、創造するのだ。

認識だけでそこに至る天才もいるだろうが、そんなのは稀過ぎなので、誰でもドーパミントリガーが可能になる方法は負荷をほとんどかけない状態での創造である。

なぜそれがドーパミントリガーとなるか、それは単に作っているだけであれば大してドーパミンは出ないが、出来た、という感覚がドーパミンを排出する。ワーカホリックもこのドーパミントリガーの虜になっている人間が陥る。何かを作ることに人は根源的な快楽を得られるのだ。

また、スポーツをアホのようにやる人も多いが、それもドーパミンを出すためだ。人は体を動かすことに根源的な快楽を得られるようにできている。

作る、動く、そして結果を見てドーパミンを発動させる。この繰り返しが凡人にも可能な唯一の瞑想に似たドーパミントリガーである。

しかし、結果を気にしない方が続けるには有効だ。続けること自体を楽しむということが重要なのだ。でも、それだとドーパミントリガーは動かないので、結果的にやる気を失う。結果を気にしないと心にもないことを嘯いても結果を気にしない状態にはなれ無い。

ではどうするか、単純だ。結果を最低限のところに決定しておくということ。そこに到達するのをとりあえず目指す。いきなり山の頂上を狙っていくと足元のちいさい石に躓いて、足を挫いて進めなくなる。それでも進もうとする意地があるなら大したものだが、まあそんな人間は少ない。足を挫いて動けなくなった奴らが大量に登山口に並んでいる。三日坊主と呼ばれる妖怪だ。

だから、この道を行けば良いというだけ把握して、とりあえず目の前の石を超える、避けるというのを目標にする。それを超えたら結果だ。軽くドーパミンが出る。しかし、山頂に至った時ほどの絶頂感では無い。当たり前だ。しかし、続けるために必要なドーパミンは小さい結果でも出るのだ。

ドーパミンが出ることが常態化してくると、続けるのが苦にならなくなるし、むしろ快感に変わっていく。結果をさっさと得る、ドーパミンを出す、次の目標を決めて進む、結果を出す……無限に続けて、最後に山頂に到着すると、まあいきなり山頂に至った時ほどの快感はないだろう。しかし、続けられないならどの快感も得られない。

「出来た」という快感は尽きることないし、いくらでも自分でデザイン可能である。だから絶対できることに細分化して、作る、動くのだ。そうして集中すれば簡易的な瞑想と同じになる。その中に行くために守らなければならないことなんて何もない。幸せというのはそうやって自ら作っていくことだ。

6/02/2016 09:27:00 AM