作ると知らなかったことがわかる

ものを作るというのは、人の営みの中で当たり前にできるようにならなければならない、つまり、作ることなくして生存が難しい原始時代を我ら人類は過ごしてきた。自分で作れるものは自分で作る、それが苦しくないように、作ることそのものが楽しいようにできている。散歩がやり始めたら何故かはわからないのに楽しいように、何かを作るというのは基本的に快楽中枢を刺激できるようにできている。

しかし、何故作るのが苦痛に感じる人が多いのか、それは教育によってそういう風に作られたからだ。消費しなければメーカーが儲からない。何かを作って儲けようと思ったら手段は二つしかない。誰にも作れない凄まじいものを作り出すか、誰も作ろうと思わないものを作るかだ。

前者は非常に困難であるため、国が関わる場合、誰も作ろうと考えないように教育するのが良い。授業で、期待をかけて負荷を強くして、それでも耐えられ、作ることを諦めない個体だけを抽出するということをすれば良い。しかし、作るのがそれだけ負荷がかかる以上、頭の良い人間は作るよりも作らせる方に回ろうとする。作るタイプの人間を薄給で束で買い取り、作らせる。不満が何故出ないか、そんなことに気が使えるようなら作る方に回るような容量が悪い人間はいない。負荷をかけられても辛さを感じない、ある種のバカじゃないと、現状ではものを作ることは不可能だ。

人に強制されたりするのに辛さを感じない人間や、他に行くあてがないが人より自分が特別だと思っていたい顕示欲の強い人間が行き着くのがクリエイター(笑)である。生き残れるかどうかは「深く考えない」以外に無い。深く考えたら損しか無いからだ。人が作るものに大した価値は無いと皆知っている。この国で何かを作るというのはそれだけ負荷が高く、骨折り損なことであると理解すべきだ。

まっとうな知能を持っていて、普通に生きていきたいならば、作るのは個人的な趣味であるべきだ。何かを作って生活するというのができるのは、とてつも無い能力を持つか、運の良さか、若年性の成人病やら、精神病などと引き換えにしか手に入らない、つまり悪魔の道だ。

毎日、あんぱんにケシの実を乗せながら、禿げた班長に怒号を浴びせかけられながら、それでも家に帰って、暗い部屋でペン先に炎を灯して、作品を書き上げるのだ。ジョギング、ウォーキングだって人に強制されたものは辛いだろう。自分で楽しみのためにやるなら快楽中枢を刺激するものであってもそうなのだ。人に強制されても耐えられることを仕事にすべきなのだ。だから、ケシの実をあんぱんに乗せるのは、いくら強制されようと……いや、元々辛いものだから、強制されない限りやらないことだ。だから辛くもなんとも無い。

快楽に繋がることは強制的にやらなくてもいい、土壌が整えない限りやらないことだ。それが自分を守り、幸せに生きる唯一の方法だ。

6/06/2016 09:24:00 AM