長い間使い続けられる保証が無いものに魅力を感じない

だからiPhoneだし、nexus、今は名前がかわったが。そういうものにしか興味が無い。信用だ。それはその時はそれしか無いというプロダクトはあるかも知れないが、そもそもの部分で何の継続性の信用も無いものを有難がるのは性に合わない。

だからSONYの商品に魅力を感じない。独自性があるのは好ましく無いが、それ以上に単発で出してそれ以降何のケアもするつもりはありませんという内容の製品を見て心が躍ることなどあり得ない。逆にそれでスペックをみて興奮する層の気持ちがわからなくて困る。なぜなら継続性の安心感よりもスペックを取る人の方が一般的だからだ。

特に、ガジェットに興味がある人はそうなりやすい傾向にある。普通の人は携帯なんてショップで興奮させられたものを適当にチョイスしてそれでオーケーというレベルで大した執着心も無いだろう。それはそれで良いのだが、自分はそうでは無い。

執着心の先がひたすら継続性に向く。継続性さえあればスペックが低くてもまあ不安は感じないが、OSのバージョンアップには対応しませんで、いきなり新製品でリセットとかされると腹がたつ。それを繰り返す事で自分の懐を肥やそうとしてるなら、スペックが低く高額であっても継続性の高い製品を選ぶ。ここから何年OSをバージョンアップし続けられるか、それによって不具合が少ないか、そういうのを望んでいる。

インターフェースが変わらなければスペックなんてすぐに時代遅れになるのだ。スペックではなく、その製品の設計思想が最も重要なのだ。スペックなんて安直過ぎる。プレステもそうだ。本質的な面白さをどうやって引っ張り出すかという事でしかない。スペックのよ高さは頭打ちになり、限界が来るが人の求める物は普遍性に裏打ちされていて、生きている限り無限にそれを求めるという物がある。そこを目指そうとしているか、その場しのぎの使い捨てかの違いである。個人的にはいくらスペックが高いと喧伝されても普遍性が無ければ欲しく無い。

Macintoshは最初、人の感覚が求める本質的な事をコンピュータで再現しよう、利用できるようにしようというコンセプトで生み出された。ホスピタリティの結晶である。確かに使いづらい部分は残るが、そのコンセプトを持つ製品は外さない。モノマネだったとしてもWindowsはその概念を理解はしていた。自らそのセンスを持ってはいないが、そうなろうという方向性は学び取ろうとしていた。

OSを作る会社だけがその感覚を持つとも言える。製品だけつくる会社はその場しのぎのマーケットでの優位性を目指してスペックとデコレーションを頑張る、そして使い捨てを繰り返す。全くセンスも魅力も感じない。

11/15/2016 09:24:00 AM