ダイナブックの構想

「あらゆる年齢の「子供たち」のためのパーソナルコンピュータ」アラン・ケイ/ゼロックス・パロアルトリ・サーチセンター

要約:個人が携帯可能なデバイスの出現と利用で子供と大人たちが受ける影響についての考察を行う。空想科学小説のようだと思われそうだが、デバイスの小型化と低価格化という世の流れを考えると、ここで議論することは近いうちに確実に実現するだろう。

「世界を知るためには、それを自ら構築しなければならない」――パヴェーゼ

長年、技術を活用して社会問題を解決するというのがひとつの伝統だった。「スラムが問題、ならば低コストの住宅を作りましょう」「テレビを買う余裕がない、では欲しい時に買えるように、安価なものを作りましょう。支払いが済む前に壊れるとしてもね」「子供たちは学んでいないし、教育コストも高すぎる、では、あなたの子供たちがテストに合格するのを保証する、教育メカを作りましょう」

残念ながら、これらの「救い」のほとんどがサビの上にペンキを塗っているだけだ。最初の問題の原因が残されたままである。教育のゴールは、各々が考える「最終成果」の様々なモデルによってさらに分かりにくいものになっている。例えば、社会はより多くの構成員(文化的遺伝子)を欲しているし、親たちは(子供に)成功や、社会への適応、そして名声を求めたり、あるいは無関心であったりする。肝心の子供は何がしたいのか訊ねられることはない。(子供は単に植物の種を蒔いて、それらが成長するのを見たいだけかもしれないのに)教師たちはどうだろう。教師にももちろんさまざまな人がいて、見識ある人物(話かけてくる子供のタイプを理解している人)も居れば、教える意欲に満ちるが才能に欠ける人もいるし、単なる仕事と割り切っているひと、あるいは大学で単位を取りやすかったから教育学部に流れ着き、若い頃のツケを払う運命を認めているような人たちもいる。

少なくとも最下層の教師は教育マシンによって置き換えられると技術者達は指摘している。ただ技術者たちがいくら頑張っても作れるのはせいぜい「教える意欲に満ちているが才能のない教師」である。しかも技術者たちはそれを理解していない。ではテクノロジーは見識ある教師のようなマシンを作り出すことはできるのだろうか。おそらくは可能であるが、まず最初にゴールとして何が必要なのかを決めなければならない。

このノートでは「テクノロジーを駆使したメデイア」で強化できる学習過程について考察していきたい。この概念のほとんどが子供について述べた多くの理論にその起源を見つけることができる。我々はひとりの子供を「名詞」というよりも「動詞」として感じているようだ。子供は単なるモノではなく役者であり、単に大きさを拡大しただけのハトやモルモットでもない。子供は目の前の問題に対処するために、自分を取り囲む環境のモデルを探そうとする。その理論は着想Aから次の着想Bに進むにはどうするかといった「実践的」なもので、厳密な論理の道筋をたどる「一貫した」ものではない。子供へ影響を与えるときに、子供の中にあるモデルを教える側のモデルで置き換えてしまおうとするのではなく、子供自身の現在の考えのモードのなかに手がかりとして置いていく方法を採りたいと思う。

我々は学習プロセスにおいて、テクノロジーが本以上に必要なものだとは思っていない。しかしテクノロジーは受動的なものではなく(子供のような)能動的でより良い「本」をもたらしてくれるだろうと考えている。その本は、テレビのように注意を惹きつける力を持ちながらも、その力をテレビ局側からではなく、子供自身によって制御できるようなものになるだろう。それはピアノのようなものだが、ツールであり、おもちゃであり、表現のメディアであり、果てしない喜びの源泉であり……そして他の物と同様に、無知なものの手にかかれば酷い苦役の元にもなるものだ。

この新しいメディアは、災厄から「世界を救う」ことはない。本と同様に、それは視野と問題の新しいセットをもたらすだけだ。本は何世紀にもわたる人類の知識を包みこみ、全ての人々に届ける役割を果すことができた。おそらくテクノロジーを使ったアクティブメディアも同様に思考と創造の興奮を伝えることができるはずだ。

――二人の子供が芝生の上でダイナブックを使っている様子のイメージ

バシィッ、美しい閃光と効果音と共に、ジミーの宇宙船がバラバラになった。宇宙戦争はまたベスの勝利だ。九歳の子供達は家の近くの公園の芝生に横たわっていた。子供等のダイナブックはお互いに接続されていて、画面にはベスの宇宙船が勝ち誇って浮かんでいる宇宙空間が映っている

「またやる」とジミーが聞いた。

「ううん」ベスが言った「簡単すぎる」

「うーん、本当の宇宙だったら、太陽を周る軌道になるんだ。そしたら絶対勝てっこないんだから」

「へー、そう」ベスは興味をそそられた「太陽は、どうすればできるの」

「うーん、えっと、そうだね。もし宇宙船が太陽のない空間にいたら、そのまま動き続けるんだ。何も止めるものがないから。噴射ボタンを押すたびに、プログラムが宇宙船の向いている方向にスピードを足すんだ」

「そうよ。だから宇宙船を回転させてから噴射するの」ベスは、何回かダイナブックのボタンを実際に押して、動かして見せた。「でも、太陽があると物体は太陽に落ちていくから……今のとは違うのね」

「でも見てよ、ベス」ジミーはベスの宇宙船を指して「噴射ボタンを押しっぱなしにしていると、どんどん速くなっていく。ヤコブソン先生が物体は引力でどんどん速くなっていくって言ってたのと同じみたく」

「うん、そうね。石が地面に向かってロケット噴射するみたいにね。ねえ、宇宙船にそんな風にスピードを足していくのって、どう」

「どういうこと」ジミーはよくわからなくなった。

「これ見て」ベスの指がダイナブックのキーボードの上を飛び始めて、プログラムを書き変えはじめた。そのプログラムはベスとグループメンバーが「たまたま」ヤコブソン先生の宇宙戦争ゲームを見かけて、数週間前に書いたプログラムだった。

「あなたは宇宙船が太陽に向かっているかのようにスピードを足せばいいの」ベスが言うと、ベスの宇宙船が落ち始めた。ただし、太陽に向かってではなかった。「あ、だめ、あちこちに飛んじゃってる」

ジミーは何が間違っているのかわかった。「太陽の方向にスピードを足さなくちゃ。宇宙船がどこにあっても」

「でも、どうやって、もうー」

「ヤコブソン先生に訊きに行こう」ベスとジミーはダイナブックを持って、芝生を横切り先生のところに駆けていった。先生はベスとジミーとは別のグループメンバーが何を勉強したらいいか見つけるのを手伝っているところだった。

ベスとジミーが物事を知りたくて仕方無さそうにしている様子を見てヤコブソン先生は目を輝かせた。ベスとジミーはいまだに二歳児のように知りたがりなのだ。この人が生来権利として持っている好奇心と創造への情熱を保ち続けてくれるよう、ヤコブソン先生は全力を尽くしている。

ベスとジミーの話から、ヤコブソン先生は子供達が大切な概念を再発見したことと、ベスとジミーの「宇宙」に太陽を加えるのには一つのヒントで十分だということを見てとった。

先生は熱狂しながらも、ちょっとぼやかして言った。「そりゃすごいね、図書館に行けばきっとわかるよ」そこで、ジミーはダイナブックを教室のLIBLINKに接続し、遠い過去からの思考と知識を受け継いだ。それはダイナブックで詳細に読むことができ、あたかも限りない宇宙の終りなき航海のようだった。いつものことだがジミーは最初の目的がなんだったか忘れはじめた。何か興味を引かれるものを見つける度に、それを後で見られるようにコピーを取ってダイナブックに送っているからだ。ベスがジミーの脇腹を突いて、ジミーはようやく必要だったものを真剣に探し始めた。ジミーは探しやすいようにダイナブックに簡単なフィルターを設定した。そして……

ベスとジミーが座標系の概念を発見しようと真剣にがんばっていたちょうどその頃、ベスの父親は大事な会議の準備のために飛行機に乗っていた。朝、ビジネスマスターファイルに関連した背景事実を要約たものを精読、ときどき読むのを中断してコメントを音声で入力。コメントをタイプ入力しないのはいくぶんアナクロだとは知っていた。(未だにジョーンズ女史がタイプする必要がある)ベスの父親は長年約束されてきたはずの音声認識機能がそろそろ自分のダイナブックに加えられることを切に願っている。地上に着いて、空港のストーリー販売機の一つに貼ってあった派手なポスターが目にとまった。ベスの父親はヒロインが本当に「独創的」なのかを「ちょっと確認」しておこうと、ダイナブックをストーリー販売機に接続してみた。実際、ヒロインは「独創的」だった。ダイナブックのコピーキーを押すと(奥さんのアリスには知る由もない)、ストーリー販売機にコピーを取るための料金を払っていないと言われ、ちょっと悔しい思いをした。

ベスの父親はビジネス的な頭に切り替えてタクシーに乗り、競合相手の見積りをチェックしておこうと決めた。ダイナブックで情報をスキャンしながら、これは五年前にはやっていなったことだと思い起こした。自分の手でやったり、人にやらせるには、あまりにも大変なことだったのだ。そしてまた、ベスの父親は飛行機に乗っている間に思いついた見積りの数字の新しい見方について考えた。

そのころにはベスは、もし太陽が「〇」の位置に置かれていたら馬鹿馬鹿しいほど簡単な問題だったと気付き、船の位置に応じて、単に宇宙船の「水平方向」と「垂直方向」のスピードを少し減らすようにした。ベスや他の子供たちが前に作ったお絵描きやアニメーションはすべて、その時点で子供たちが備えていた能力の範囲とぴったり一致する相対性の概念を使うことによって成し遂げられ、ベスはその時心の中でいくつかの独立した考えを持つ用意ができていた。子供たちが獲得した線形・非線形の概念に対する直感的な感覚は後に科学を理解するための資産となった。

宇宙船が完成した後ベスはジミーを見つけてダイナブックを接続し、ジミーを宇宙戦争で飽きるまで叩きのめした。ジミーはベスほどは強くない対戦相手を探しにいったので、ベスは自分のダイナブックで前に書いた詩を取り出し、数行を編集して改良した……

現在の技術でも「ダイナブック」のようなデバイスをベスのような子供やお父さんに提供することは可能である。ダイナブックは学校の図書館やビジネス情報システムのように、未来の「知識のインフラ」を通して他の人とコミュニケーションするのに使うことができる。しかし多くの場合、現在紙やノートが使われるのと同じように所有者自身との内省的なコミュニケーションに使われることになるだろうと我々は考えている。

道具というものは媒体の操作を助けるものであり、人間は「道具を作る動物だ」という決まり文句で表現されている。コンピュータも多くの人は道具だとみなしている。しかし、明らかに、本というものは道具以上のものであり、人間もツールを作るだけの存在ではない……人は世界の発明者なのだ。人間がものを見たり言葉を使う方法を知った瞬間から、それぞれの新しい世界は、思い描いた構造を埋め込むことのできる表現の媒体(および制約)と言う役割を果たし、それは通常、道具の助けを借りて行われている。ではコンピュータはどうだろうか。コンピュータも明らかに道具以上である。典型的なマクルーハン理論の流儀においても、コンピュータのコンテンツの大部分には以前のメディアからのものが採用され、コンピュータ特有の性質はまだ発見され始めたばかりだが。

ではパーソナルコンピュータとはなんなのだろうか。パーソナルコンピュータは任意の記号的概念を保管し表現する媒体であると同時に、それらの記号的概念の構造を操作するための有用な道具のセットであり、そのレパートリーに新しい道具を追加することもできるものであってほしいと考える者もいるだろうが、もう一つ忘れられがちな制約は、書籍や印刷よりも、少なくともいくつかの点で優れていて、かつ、他の媒体よりも顕著に劣っていないことだ。(この言及は、すでに知られている商用ディスプレイデバイスを考慮することを禁止しているように見える)「パーソナル」というのはそのユーザによって所有され(テレビよりも高価ではない)、持ち運びできる(ユーザがそのデバイスとその他のものを同時に簡単に持ち歩くことができる)ということを意味する。森の中で使うこともできる、というようなことも追加する必要もあるだろうか。

「何を学ぶか考える前に、よく考える事を学ぶべきである。その方が難しいと分かるだろう」――アナトール・フランス

最近、人工知能の分野と、教育の分野の(一部)研究者の間で、子供がどのように自分自身の世界のモデルを獲得していくのか調べるのが流行りつつある。(かつては、知的な振舞いというものを人間の特性を考慮に入れない方法で模倣できると考えられていた)先導するニューウェルとサイモン、パパートとミンスキー、ムーアとアンダーセンに続いて、今では多くの人が、この子供がどうやって知識を獲得し操作しているかということに対して興味を持っているようだ――まだほとんどわかっていないが。中でも興味深いのは、子供が発達の様々な段階で何をしているかについて調査を行ったピアジェ、ブルーナー、ハート、カガン、その他の人々によって主に構築された初期の発達とモデルの理論である。

もう一つ関連のあるグループとして、子供たちが成熟の様々なレベルで実際にどのようなことができるかを発見することに興味を持っているグループ、つまり二歳から五歳の年齢の子供たちが普通考えられていた以上に学習能力が高いと最初から結論づけていたモンテッソーリについても触れる必要があるだろう。O・ K・ ムーアは、反応的な環境を介して、とても幼い子供たちが読み、書き、要約することを学ぶことができることを示した。鈴木鎮一は、三歳から六歳までの何千人もの子供にバイオリンを弾くのを教えることに成功した。ブルーナーとカガンは、たとえ〇歳児(あるいは〇ヶ月児)であっても、視覚的な区別と一般化について以前考えられていたことよりも遥かに高い能力を持つことを実証した。

脚注:社会学上の理論がいかほどに、どこまで証明可能かには興味があるところだ。子供たちには素晴らしい能力があるという考えを支持する多くの証拠があるだけではなく、子供たちは本当にバカで、学ぶためには終わりのないほど繰り返しが必要であることを示す(悲観的な精神によって集められた)証拠も同じくらい存在している。ホーソン実験は、我々はできる限り楽観的であるべきであり、子供たちはいつも我々を救ってくれると主張している。特に O・ K・ ムーアとシーモア・パパートの仕事と思想はダイナブックを生み出した考え方に影響を与えた。子供は能動的で主体的な創造者かつ探検者でもあり、一般に思われているよりもずっと知的な能力があると二人とも感じていたのだ。ムーアの「トーキング・タイプライター」を導いた幾つかの原理は検討に値する。子供は長時間集中力を持続する能力に欠けているのではなく、ある考えや行動に敬意を払ってずっとおなじ役を演じ続ける事ができないのだとムーアは感じていた。ある考えに対して「がまん強い聴き手」の役は、「活動的な主体」、「審判」、「ゲームプレイヤー」などの他の役が無ければすぐに退屈や注意散漫になってしまうのだ。たくさんの視点を許容する環境こそ、子供が自身で識別したり、抽象化したり、統合化したりする活動にとても適している。

「安全で秘密」な環境、そこで子供たちが社会的にも物理的にも傷つかず、どんな役でも演じる事ができるというのは一日の中でも大切だ。たとえ技術と知識を時々友達や大人の前でしっかりと確認する事が必要でも、だれにも咎められずに「思い思いの事」をする完璧に安全な時間が無くてはならない。ムーアの言う「生産的」な環境とは、学んだ事を新しいアイデアの一部として使え、さらに学習できるようになるような環境のことだ。つまり子供の活動に即座に反応を返し、子供が自身のモデルを手に入れられる環境というのは非常に重要ということである。「トーキングタイプライター」はこれらのアイデアを結晶化したようなデバイスで(最初は壁の裏に隠れた大学院生が演じていた)、小さな子供の能力や傾向について多くの美しい洞察へと導くものだ。

「コンピュータが子供をプログラムするべきか、子供がコンピュータをプログラムするべきか」――S・ パパート

子供たちが自分自身の目的(アニメーション、ゲームなど)のために自分でプログラムを書ける環境を通して「考える事を子供に教える」というパパートの仕事は、人工知能とピアジェという哲学的背景があるが、際立ってムーアの精神に似ている。

テキスト、グラフィックス、音楽、子供たちのプログラムによって制御されるぎくしゃく動く機械仕掛けの「タートル」を実現するために(タイムシェアリングで)LOGO 言語は使われている。パパートの LOGO の仕事は、もしも頭文字をとってコンピュータを使った(Computer Aided) 教示(Instruction)では無く、洞察 (Institution) や創造(Inspiration) と言ってもよいなら「CAI」と呼べるだろう。しかし現在多くの場合、コンピュータが関係する教育はネズミやハトを使った行動工学者の実験に由来する(あらかじめ)プログラムされた学習を基にしている。パパートの見方は一方で、(奇妙な事に)ほとんどが実際に子供と子供がどのように世界を捉えるかについて研究したピアジェとその仕事との交流に大きな影響を受けている。

我々の事業は後者にとても共感している。どれだけ正しくテストに答えられたか、どれだけ一年にテストを通ったかで発達をみるのではなく、むしろ人生における「システィーナ礼拝堂天井画」に興味があるのだ。これは技術の習得を軽視しようと言っているわけではない。「システィーナ礼拝堂天井画」は夢と夢を描く偉大な技術の両方を健全に使わなければ成立しない。ダ・ビンチは「手を働かせない精神に芸術は無い」と言ったそうだ。

人はスキーなど、スポーツ技術の完成のため、嫌がらず喜んで何千時間もかけるとパパートは指摘している。明らかに学校と勉強は子供の興味を惹かないばかりか、知的技術を学ぶ事で自然と生まれる楽しみをも遠ざけてしまっているのだ。

子供が「行為によって学ぶ」事、そして子供が「できる」事と二十世紀の大人の振る舞いの間にある遠い哲学的距離が近代教育の疎外を生んだ事を、デュウェイ、ピアジェ、そしてパパートと我々は共に信じている。アフリカの子供が弓矢で遊ぶ事で将来の大人の活動に参加している一方で、アメリカの子供は役に立たない(看護服を着て人形の世話を焼く等の)真似事にふけるか、何年も後にならないと実を結ばず、それまで疎外されたままの活動を強いられる。算数「かけ算は役に立つよ――ほら、本に書いてある問題が解けるし」音楽「バイオリンを練習しなさい。三年後には音楽について教えてあげるかもしれない」など。

もしも子供に何かを学んでもらいたいなら、つまり感性と技術を身につけるため、本物で楽しい何かを「する」手段を子供に渡したいなら、提供者は明らかに我々だ。絵を描く事は難しいが練習は楽しい、なぜなら絵の完成はその分野を完全に習得しなくても実現できる小さな目標だからだ。

残念だが楽器の演奏と音楽的思考の習得はもっと大変である。ほとんどの近代的な鍵盤楽器やオーケストラの楽器の練習ならば何ヶ月ものあいだ子供が満足するような小さな目標がないし、音楽とは何か、自分自身でどのように「する」かという洞察を何も得られない。これはどちらかというと板に「番号どおりに」絵を描くような「繰り返し修行」に似ている。しかも自分で番号や絵の具を選ぶ事さえできないのだ。

一般的に言って、計算や数学の勉強はさらに悪い状況である。かけ算を使って一体子供たちは何を「する」のだろうか。普通に答えると、算数の問題集を解く事になる。典型的なお堅い答えは「練習して学ばなくてはならない物もある」というものだ。(幸いにも子供はこのような状況で母国語を学ぶ必要はない) パパートの子供たちはコンピュータで書かれたアニメーションの大きさを変更するためにかけ算をつかう。つまり少なくともパパートの子供たちにはかけ算を使って何か「する」事があるのだ。

発生的認識論。ジャン・ピアジェのライフワークは広大で奥深く表面的な要約はほとんど意味を成さない。すでにいくつかの要約や批評(例: Furth: Piaget and Knowledge: Theoretical Foundations)が存在するため、ここではより厳選したものだけを取り上げる。

ピアジェの基本概念の次の二つはコンピュータサイエンティストにとって魅力的である。

一つめは、特に年端の行かない子供に置いては、知識は一連の操作モデルとして獲得され、それぞれのモデルは幾分場当たり的で、他のモデルと論理的に一貫している必要はないというもの。(それらは本質的に論理的公理や述語、定理などではなく、アルゴリズムやストラテジと呼ぶべきものである)論理が使用されるようになるのは発達段階のずっと後半で、その段階でも論理を超えたストラテジが取られ続ける。

二つめの考えは、発達が(文化的な環境からは独立しているように見える)一連の段階に沿って進むというもので、それぞれの段階は前段階を土台として構築されるが、認識や一般化、因果関係の予測などの能力で大きな違いが見られる。それぞれの段階に達する年齢は子供ごとに大きく違いがあるものの、ある段階がその前段階にはっきり依存しているという点は変わらないようだ。またもう一点、言語は思考の女王ではなくむしろ侍女であり、ピアジェやその他の人たちが見つけた証拠によると、そのような思考は言語に依らない映像的なものであるらしいということも後で重要になってくる。

発達段階。ピアジェとブルーナーの二人は発達の段階に名前を付けた。ブルーナーの付けた名前の方が少し分かりやすいので、以下にはそれらも合わせて載せておく。

〇歳「感覚運動期」動作的、反射的反応、繰返し再現させようとする行動、新規な現象への興味、物の永続性の理解。

一歳〜五歳「前操作期」言語的適応の始まり、質量の保存認識は未獲得、長さの保存認識の獲得。

七歳〜八歳「具体的操作期」映像的、数の保存認識、事象の変換前後での不変なものを認識、推移律。

十一歳〜十二歳「形式的操作期」記号的、力学的釣り合いの理解,、仮説演繹的推論/諸法則の帰納。

もし発達段階に本当に依存関係があるのなら、進んだ段階のコンテキストを、まだその準備ができていない前段階にいる子供に無理に詰め込もうとすることは、意味が無いだけではなく害のあることかもしれない。例えば、今は子供たちに(「New Math」で)二次元のデカルト座標系での点集合トポロジーをできるだけ早い段階に教えることが流行っているが、そこで教えられる知識は操作期にある子供は次の段階に進むまで座標系という概念を理解できないということを示すピアジェの一連の実験結果にそぐわない。しかし一方、そのような子供たちは連結、囲い込み、グループ化(全て相対的な概念)などに関する非常に洗練されたトポロジの概念を持っているとされている。パパートとゴールドスタインはこれらの側面を使用してグローバル座標系を用いずに幾何学とトポロジを教えた。こちらの方がずっと好ましいやり方といえるだろう。

もし「述語的」(論理的、統語的)モデルよりも「操作的」(意味論的)モデルに信憑性があるという前提に立つなら、現在「New Math」で広く取り入れられている非常に統語的な考え方と衝突が起きることになる。例えば、自然数について「三+五」「四+四」「一六-八」「四*二」「八」これらは「八」という値を表す「数字」になると言われる。このコンセプトは間違った理解を誘いやすく非意味論的なだけではなく、そもそも間違っている。(「八/三」がどういう数を表す「数字」だというのだろうか)ミンスキーは次のように指摘した「New Mathの問題点はそれを使用するたびにそれを理解しなければいけないことだ」

子供たちの考え方の基礎と形式化に関するピアジェとその他の人々の研究は、コンピュータが子供の認識論を表現するのにほぼ理想的なメディアであると信じるに足る、非常に説得力のある根拠を与えてくれた。もし「操作的モデル」がアルゴリズム、つまりゴールを達成するための手順を表すものではないというなら、それは一体なんだと言うのだろう。アルゴリズムはそれほど公式ばってなく論理的な一貫性も必要とはしない(プログラムのデバッグに数時間を費やしたことがある人ならそのことを知っているはずだ)これは全体的で、「真実」を正確に表現するよりも実際の仕組みに興味を惹かれやすいという子供たちの視点にとても適している。その一方で、コンピュータは「思考」に関係するスキル(戦略と戦術、計画、因果の連鎖、デバッグと改良など)の形成を助けることもできる。寛容で誰からも見咎められず、しかも楽しい環境の中で、子供たちがそのようなスキルを自ら育てるチャンスを得られるというのはなんと得難いことなのだろう。

The ダイナブック

「蒸気によって計算されるのを神に願う」――チャールズ・バベッジ(十九歳)

ca・ 一八〇三

「ジャカード織機が絹でパターンを織るように、解析機関は代数パターンを折る」――ラブレース卿エイダ・オーガスタ

現在、我々にはダイナブックの登場を望むいくつかの理由がある。ダイナブックは現在発明されている技術によって数百万人の潜在的なユーザーに売る(もしくはレンタルする)だけの価格で大規模に生産できるのだろうか。そのデバイスのより実際的な側面(サイズ、費用、性能など)に関していろいろと検討することは、最初、我々に行動を起こさせることになった難解な哲学を検討することと全く同様に重要なことだ。これから数ページにわたり、入り組んだトレードオフについて議論し、ダイナブックの目標価格である五〇〇ドルが非現実的ではないと読者に分かってもらえるよう試みる。現在のコストの傾向および各部の大きさは目的に届くことを期待している。五〇〇ドル以下で販売できるテレビのアナロジーを念頭に置く必要があるだろう。では、ダイナブックはどうあるべきか。

大きさは紙のノートよりも大きくてはいけない。妥当な品質の動的なグラフィック表示が可能であるべきだ。重さは四ポンド(一八一四グラム)より軽く、画像表示は印刷品質の文字が、本と同様のコントラストで四〇〇〇文字表示できるべきだ。取り外し可能な局所記憶装置に百万文字(通常の本で五〇〇ページ分)保持できるか、数時間にわたる音声ファイルを保管できなければならない。

アクティブなインターフェースはデバイス所有者からかけ離れた言語的なコンセプトを使った言葉であってはならない。所有者は好きなときに好きな場所で自分のテキストファイルやプログラムを修正したり編集したりすることができるだろう。仕事(や、学校の図書館に接続したときなど)でダイナブックは端末として使用できる。書籍を熟読したり、概要から情報を発見したり、必要であれば素早く局所記憶に転送できる。アンビリカルケーブルは情報の転送だけではなく、必要であればデバイスの持つ動力に電力の供給もできる。情報は三〇〇Kb/sの帯域幅、もしくは一冊の五〇〇ページの本を三十秒で局所記憶に転送できる。バッテリーの充電も接続中に自動的に行われる。

ここでは「書籍」は買ったり借りたりする代わりに「インスタンス化」できる。(百科事典からわがままな女性の最後の冒険まで(様々な本の))情報を熟読できるが、料金を払うまでファイルを取得することはできない自動販売機を想像するといい。この、コピーの作成を容易にし、情報を自分のために所持する機能はおそらくコピー機が出版を強化させたように(多少傷つけることがあったとしても)市場を弱体化させることはないだろうし、テープがLPレコードビジネスにダメージを与えた訳ではなく、むしろ音楽流通の別の手段を用意したように振る舞うだろう。 ほとんどの人は海賊版に興味は持たず、むしろ自分の持っているのものを自由に並び替えて再生したいと思うだろう。

この「どこでも携帯」デバイスおよび、ARPAネットワークもしくは双方向ケーブルテレビによる広域情報ユーティリティは図書館や学校(店や広告じゃなく)、もしくは世界を家庭に持ち込むことになる。おそらく、所有者によって真っ先に書かれるプログラムは広告除去フィルタだろう。入力は(皆がすでに学んでいる)キーボードか、そうでなければ古くからの習わしである秘書による「口述筆記キーボード」経由、または音声入力になる。デバイスのファイルシステムは音声情報(とディジタルヘッダー情報)にも容易に使用できるだろう。しかし、それはなにか編集が行われる前に文字おこしされなければいけない。「インタラクティブグラフィック」は容量の関係上制限されると思われるが、画像はFAX文書として保持および編集できる。

プラズマパネルなどのフラットパネル表示装置、外部CRTへの接続は大きさの要件によって決定される。電力消費の関係上プラズマパネルは使用できない(これは、表示に五アンペア必要だからだ)上に、ubiquitous CRTはどこでも使用できるとは言えない。次に何が残っているだろう。われわれには、表示変更時のみ電力を消費し、それ以外の時には使わず、自然光の下で読むことができる何らかの技術が必要だ。位相変化型液晶をx-y座標に並べたものは低電力電場で透明および不透明に変化させることができる。また、この表示装置は非常にわずかな電力で表示内容を保持できる。電極の幅は一ミリ程度、五一二×五一二の画素を変更するのに半ワット以下ですむ。(注:現在の技術でまだ五一二×五一二の画素を実現しているものはない)

通常(画面を)見る距離で書籍と同様の品質になる文字を表示するには、視覚をうまくモデル化する必要があり、我々の研究室で最近なされた文字生成の技術に関する知見を利用する必要がある。これら印刷品質の表示を作るためには研究室品質のCRTディスプレイ端末を使用する必要があり、「ロード可能文字生成装置」を試験的に作成した。ASCII文章をリアルタイム画像変換するためには、三二×三二のビットマトリクスで表現できる一二八文字のフォントを、高速バイポーラメモリーに動的ロードする必要がある。フォントの大きさ、太さ、下線などのオーバーレイ文字のフリルが提供される。写真は無修正で画面(八七五縦解像度)に表示できる。

最初の興味深い発見は、ディスプレイが「想定以上に」きれいに見えたということだ。つまり、文字が量子化レベルから推測されるよりも綺麗に見えたのだ。ただし、大きなサイズに拡大されると、すぐに見難くなる。この現象は直感的には視神経路が天然で持つノイズフィルタ機能が原因だと説明できる。本質的には、まず(視野角がほぼ〇・〇二度のウィンドウを使用して)信号の平均を取り、細かい角をぼかした後で、よりひろい範囲で微分して見た目を微調整し、はっきりした画像に戻している。このフィルタ効果は孤立した小さなグリッチを除去し、幸運なことに文字を定義するマトリクスを美しく見せてくれる。そのマトリクスが小さければ、だが。これはまた走査線が八七五本のテレビが、主観的には二十二の視聴距離で見る走査線が五二五本のテレビの二倍以上に美しく見える現象をある程度説明してくれる。五二五本では走査線とその隙間が五十五分の一以上になり大きすぎるのだ。

定義マトリクスが限られているので小さな文字は問題だが、それでも想定よりは綺麗に見える。このことを上手に行う二つのトリックは、文字の縦横比を変更すること(縦:横=二以下:一、つまり四十五度の角度を九十度にする)と、非常に小さな文字に対して太字の効果を持たせるのに複数の幅のストロークを用いることだ。(目のフィルターを欺いて、文字がノイズとして除去されずに強調されるようになる)

まとめよう。ディスプレイ表面は、おそらく最低でも一インチあたり八〇〜一〇〇ピクセルの液晶であり、縦横比は垂直方向が一ピクセルに対して水平方向が約二ピクセル、かつ、全体のピクセル数が約一〇二四×一〇二四程度であるべきだ。

キーボード――もちろんキーボードはできる限り薄くなるべきである。一切の可動部品をやめて感圧式とし、キーの押下に反応してスピーカーからクリック音が聞こえるということも可能だろう。この種のキーボードは数年前から利用可能となっている。可動部品を持たないのであれば、いっそのことキーボードそのものをなくしてしまうことも可能だ。

ノートブックの前面をディスプレイパネルが覆っていると仮定する。すると、どんなキーボード配置であってもディスプレイに表示することが可能となる。パネルの四隅に設けられた四つのひずみゲージが、タッチされた場所の位置を十六分の三インチ以内の精度で記録するだろう。タッチタイピングできるように、ディスプレイパネルの下部へ多様な方法で質感を持たせることもできる。これなら、入力中の文字フォントをキートップに表示させたり、特殊文字をウィンドウに表示させたり、タッチするだけで利用者IDを選択するということが可能となる。

ファイル記憶装置――現時点で、書き込み可能なファイル記憶装置に対する控えめな(しかし重要な)要求を満たせる唯一の技術は、カセットテープやフロッピーディスクのようなプラスティック上の磁性酸化物である。最近までテープを扱うためには、ピンチローラーやキャプスタン、ソレノイドやモーターなどの寄せ集めを必要としていた。しかし現在では、テープの張力を一定に保ったり、差動駆動の問題は、多くのメーカーによって解決されている。三メガがカセットテープで実現した最もエレガントな解決方法は、「魔法の」ドライブヘッドを用いるものだ。このヘッドは、テープの巻き取りリールの外側に接触しており、読み取り、書き込み、検索、巻き戻しに対して一つのモータのみを必要とする。一六〇〇bpiのビット密度を持つ四トラックのテープならば、一インチあたり六四〇〇ビットものデータを格納したり取り出したりすることができる。我々が必要とする八メガビットのためには、一二五〇インチ(または一〇五フィート)の長さのテープを持つカセットが必要だ。もちろん、安全に利用するための間隙まで含めると、我々の幻想上のカセットは、五〇パーセントほど余分なテープ、つまり一五〇フィートの長さのテープを持つことになるだろう。

ファイルディレクトリは(LINCがそうであるように)テープの中央に置かれるだろう。そうすることで、ファイルディレクトリのアクセスに必要な平均時間が、テープを一周巻き取る時間の四分の一で済むことになる。そこから任意のファイルに至る平均距離もちょうどテープ長の四分の一となるため、結果としてランダムアクセスに必要な平均時間はテープ巻き取り時間の二分の一になる。検索スピードはほとんど完全に、望ましいバッテリー消費率と、モーターの能力とに依存する。三メガのカセットテープなら、一秒間あたり一八〇インチまでの位置を定めることができる。つまり、一〇〇フィートのテープでは約七秒で巻き取ることが可能となり、ファイルへの平均的な待ち時間は約四秒となる。これはまずまずというところだが、こんなスピードでは、バッテリー駆動時にかなり多くの電力を必要としてしまう。バッテリー駆動時の検索に対するより現実的な割合は一秒あたり六十インチで、そうするとファイルへのアクセス待ち時間は約一〇秒となるだろう。

フロッピーディスクは、二個のモーター(一個はヘッドの位置決めをするステッピングモータに使う)を必要とし、通常は連続して動作している。後者はバッテリー駆動の際には受け入れられず、また、装置自体は動いたり止まったりする必要もある。フロッピーディスクの大きな優位点は、ファイルへのアクセス時間を悪化させることなく、一つのトラック上でスワッピングが行われるということだ。(スワッピング記憶装置に関する概念や有用性については、プロセッサの節で議論する)

プロセッサと記憶装置。この二つのカテゴリーは我々の幻想的なコンピュータにおいて、それぞれ最も廉価なコンポーネントと最も高価なコンポーネントを表している。この二つを共に示す理由は、 プロセッサが必要とする主記憶の量に大きな影響を与えるからだ。

以下では、今日の技術によって、性能とパッケージ化要件が必ずしも両立しないわけではないということを示そうと思っている。(もちろん諦めなければならないことはあるだろうが)HP-三五電子ポケット計算尺のように、我々の夢の中の救世主は安価なLSIコンポーネントである。HP-35は、三万個のトランジスタと等価な五つのLSIチップを持っており、一チップあたりの平均的なトランジスタ数は六〇〇〇個だ。現在すでにもっと高い密度の集積も達成されている。パッケージ化されたLSIチップの価格は、二年間で漸近的に一二ドルに近づくように見えるが、すぐに五ドル程度まで急落するかもしれない。

今や、完全なCPUは一チップ上に実現可能である。現在の課題は、うまくパッケージ化したものを使うというよりも、プロセッサが持つべき特性が何かを決定することにある。LSIのランダムアクセスメモリは、一〇二四×一ビットのチップ(七〇〇nsサイクルタイム)がビットあたり一セントでパッケージ化されたものが普通に利用できる。四〇九六×一ビットのチップも発表され、一ビットあたり〇・三五セントでのパッケージ化が可能なようである。八〇〇〇×一六ビットのメモリなら、およそ四六〇ドルかかる計算である。(まだまだ高いが勇気づけられる価格である)

最先端の充電池は、電動ひげ剃り機やテープレコーダー、電動歯ブラシ、テレビ等の出現によって、かなり進歩してきた。将来、さらに高性能の充電池を期待できるだろう。

現時点で、ダイナブックが必要とするICチップの予想個数は二〇個以下なので、これらをうまくパッケージ化できるだろうと考えている。

ダイナブックに必要となるICの数は現在の見積でせいぜい二〇個ほどなので、当然このデバイスの電子部品はとてもきれいにパッケージ化されるだろう。

そのプロセッサーは一個か多くても二個のLSIチップで実装されると予想できる。そのようなデバイスはもうすでに一〇〇ドル以下であって、いずれ一五ドル以下になると見込まれている。それらの典型的なものは数千個のトランジスタと同等なものを含み、プログラムカウンタや数値演算や命令復帰スタックなどのためのレジスタを持っているのだ。さらにキャリー先読み演算ユニットも使えるだろう。そんなチップのひとつをプロセッサーに使った(そしてメモリ、キーボード、ディスプレイ、二つのカセットがついた)スタンドアローンの「スマート端末」が六〇〇〇ドルほどで市場に出ている(Datapoint 2200)。

ダイナブックはコストをおさえつつも端末以上のものであることを計画しているので、プロセッサー・メモリー設計にたくさんの注意深い思考を費やす必要がある。我々は次のようにして、中心的で高価な部品であるRAMの利用を最大限にしたいと思っている。

ビット当たりの命令の密度を最大にするような演算子の効果的な符号化。基本的な論理データ要素(順序集合)が必要とするメモリ空間を最小にする符号化。いかなるシステムルーチンもRAMから取り除く(インタープリタも含む)。これですべてのメモリ空間をユーザーが利用できる。仮想アドレス空間のファイルデバイスへのマッピング。これでRAMは最も新しく利用されたメモリ断片のキャッシュとして働く。(テープマシンではこれは役に立たないと思った疑り深い人は、LINCの文献(一七、一八)>を調べると良いだろう。そこには同様の仕組みが何千人ものユーザーによって何年も使われるという成功を収めたことが載っている。)

常駐する「システム」それ自体の必要性の排除。ファイルとユーザー変数の概念を融合することや、ユーザーがインタープリタと直接会話することを許可することや、割り込みを許す多重コントロールパスの評価器の利>用などで成される。これらはシステムの内部で取り扱われるべきことだ。

「中世の人々の思考には限界は無かった、おそらく語彙にそれがあったのだろう」――ウィリアムズ

いったいどんな方法をとれば、広く多様な可能性のあるユーザーたちの中の一人でも自分のマシンを通して自分自身と意思疎通するのだろうか。「すべての人に対してあらゆることを」を与えられる特徴を持つひとつの言葉というのは、明らかに不可能だ。普通の意味で「拡張可能な言語」もだめである。これら二つの魅力的な落とし穴をを考えから外して(いってみれば当然であろう)、残ったものはユーザーにとても単純で飾りのない(本当のプログラミングの動作を明らかにする)言語をもたらすチャンスだ。そのような言語は、単純にも関わらず、幅広い表現が可能である。さて、コンピュータの何が他のメッセージシステムの上を行くのだろうか。一つは、メッセージを無期限に遅らせることができること(メモリー)、あるメッセージを他のメッセージへ変換すること(プロセッシング)、そして変換自体をメッセージとして表現できること(プロシージャ)である。

この言語を使うことは、本質的に異なる二つの活動に分かれる。一、オブジェクトやクラスへ名前をつける(メモリーの関連付け)。二、以前に保存した時の名前を与えてオブジェクトやクラスを取り出す。プロセスはこれら(活動)によって構成され、調査される名前がもう無くなったときに停止する。そのような言語の全ては、たった二つの概念から簡単に導きだすことができるが、興味あることをすぐに行えるように、二、三の名前についてはあらかじめ意味を持たせている。

次にあげる原則がダイナブック言語のデザインに使われるだろう。

何のオブジェクトなのか、それらがどのように参照されるのか、他のオブジェクトをどのように取り扱うのかについての統一的な概念が必要とさる。それぞれのオブジェクトが自分の制御パスを持つなら、ひとつ以上のオブジェクトが動作している時に、各パスを調整したり「制御」する簡潔な方法があるべきである。コントロールパスの評価は、オブジェクト同士がどうやってメッセージを送り、結果を得るのかを示す単純な法則に従うべきだ。システム内のすべてのオブジェクトは他のオブジェクトを使って再定義できるべきである。

基本的アイデアは関数とテーブル(もしくはプロセスとメモリー)の間の二重性をうまく利用するというものだ。英語には名詞があり、それは「オブジェクト」に関連し、動詞があり、それは「アクター」や「話し手」に関連する。これはニュートン的認識論である。現代の物理学や哲学では、「オブジェクト」も「アクター」も単にプロセスの概念の異なる側面であるというアイデアに向かいつつある。プロセスは状態(それに関わる一組の関連[having to do with it の訳に自信なし])を持ち、これは時間(他のオブジェクトとの相互作用として定義される)とともに変化する。この観点から見ると「データ」とは変化の「遅い」プロセスであり、「関数」とは変化のより速いプロセスということになる。それぞれのプロセスはひとつの完全な「マイクロ」コンピュータとしての論理的な性質を持っている。つまり、インプットをとり、アウトプットを返し、ファイルシステム上のメモリーを演じ、演算を行い、割り込みを受けるなどができるのだ。「コンピュータ」は他のすべてのコンピュータを(時間と空間の係数により)シミュレートできるので、言語がプロセスの概念を持っていれば、配列やレコードや再帰的手続きなどの有用なアイデアをいつでもレパートリーに加えることができる。このような言語をハードウェアにより直接実行する技術はよく知られていて、シングルチッププロセッサーに収まる。

多重コントロールパスの概念は「ファイル」「オペレーションシステム」「モニター」という分割された概念を、ユーザーさえもプロセスのひとつである(変数や結びつけられたものによって構成された状態を持つなど)だから単一のアイデアによって置きかえることを許すのである。ユーザーがマシンを離れると、ユーザープロセスは次にユーザーのダイナブックに再び入る時まで不活性化される。(現在活性化された)ユーザーの状態はユーザーが離れている間は「ファイル」に構成されていた。ユーザー入力(JOSSやLISPなどの「ダイレクト」モード)の直接実行により、様々なプログラム評価の制御も追加の仕掛けがなくても完了する。複数の制御パスが許されるので、多数のプロセスが評価とデバッグの異なる段階にあっても構わない。

サイズとコスト――これまで議論してきた類の評価器に関する以前の経験から、それを実現するためにハードウェアとして八〇〇〇ビットオーダの制御メモリが必要であることが示唆される。このメモリは、今のところひとつのROM LSIチップと、もうひとつのプロセッサを必要とするだろう。現在の最先端技術の延長として、これらをひとつのパッケージに統合できると考えることは、さほど現実離れしていない。メーカの大部分のコストは、テスト、基板、パッドなどによるもので、LSIパッケージの価格はパッケージあたり一二~一四ドルに近づく傾向にある。そして、(生産量が合理的なら)むしろ装置の複雑さから完全に独立する。

「データ」と「コード」のインテリジェントエンコーディングは、BBN-LISPなどの似たような言語で同等の構造を保持するために必要なメモリを、三分の一以下に削減することを可能にする。それは、RAMの八K 一六ビットワードが、PDP-10上のBBN-LISPの一二キロ、三六ビットワードと同等であることを意味している。

ダイナブックコンピュータは次のものから構成されるシングルバスのコンピュータになるだろうと予想される。

プロセッサチップ一個、一六個(八〇〇〇×一)のRAMメモリチップ、四個のIOコントローラ(そして複数のプロセッサチップ――これもプロセッサチップだろう)、二一個のチップ。一四ドル~二九ドル、四〇〇の電子部品。この価格は、SFとごまかしのために、ほとんど信頼性がない。しかし、一部の勇敢な読者は、途方もなく高いだけではなく、馬鹿げて高いと考えるかもしれない。

まとめ――空論と幻想が約束され、前の方のページでは示されただけのものを今はほとんどの読者が同意するだろう(いくらかの与太話とたぶん根拠薄弱な気配と共に……)。

我々は、アルゴリズムの考え方を教えること、簡単な編集機能など(誰でも所有でき、どこにでも持って行けるすべてを包含した環境)を持つことの教育学的メリットを否定できないと感じている。パッケージや電力や重量の要件の検討結果は現代の技術の電子機器からそのまま導かれたものだから恐らく間違いない。ソフトウェアの知見、言語設計の指針、ユーザーインターフェイスのアイデアは少なくとも五年を経ている。主な三つのごまかしは、平面スクリーンの低電力ディスプレイ(現在存在しないが可能と思われる)、「スタンドアロン」の八Kのマシンがどの程度成し得るのかという推測、そして価格だ。

ダイナブックが五〇〇ドル(現在のミニコンと比較してとんでもなく安く、現在のテレビと比較してとんでもなく高い)で売ることができたと仮定してみよう。ほとんどの子供(そして大人)がひとつ持つことを可能にするお金はどこにあるのだろう このような教育のために子供一人当たりに支出される平均年総額は、わずか八五〇ドルだ。非常に高品質の文字生成に注意を払う理由のひとつは年間約九〇~九五ドルの学生のお金が教科書の購入、管理などに費やされるからである。ダイナブックがその製品寿命(少なくとも四〇ヵ月)まで、この機能を担うことができるなら、およそ三〇〇ドルが利用可能になりえる。たぶん、この機器自体は、ルーズリーフのノートと一緒に配布され、そのコンテンツだけ(カセット、ファイルなど)が売られるべきだろう。これは気持ちとしてはテレビや音楽パッケージが現在販売される方法と似ている。

我々は、最高の生活は資源を共有することによって得られると感じる人々と故意に論争しなかった。本との類似は依然意味を持ち、図書館はとても役に立つ。けれども、人はスケジュールも場所も(コンテンツも)一〇〇パーセントの時間も我慢したくない。ラリー・ロバーツが提案した無線端末はどうだろう。よし、オーケー。世の中を根底からひっくり返そうじゃないか。グラフィックアニメーションや広帯域のアウトプットを目的にするのではなく。もう十分に語った。さあ、始めよう。

謝辞――この非常に「幅優先な」論文をまとめることへの助力に対し、ダニー・ボブローに感謝したいと思いる。そして、Xeroxがこのようなことを考えるための素晴らしい場所を提供してくれたことに感謝する

3/03/2017 01:14:00 AM